
昭和12年(1937年)5月、台湾総督府熱帯産業調査会。
外交官・奥田乙治郎が香港総領事館在任中に館蔵の公文書の調査を行い、その結果を昭和10年(1935年)から11年(1936年)にかけて香港の邦字紙『香港日報』に連載、それをさらに単行本化したもの。
先日、古書店で戦後の復刻版(昭和59年〔1984年〕)を購入しました。
この本によると、幕末の弘化2年(1845年)に大坂(近世には「坂」と表記)、名古屋、肥前の漂流民4名が来港したのが、香港在留日本人の始まりとのこと。
その後、明治期に入ってからしばしの停滞期があり、明治10年代(1877~)に入ってようやく日本人の移住が本格化、明治13年(1880年)には男子26名・女子60名、計86名(推定。領事館員は除く)の日本人が住んでいました。
しかし、この在留日本人女子の中には、今日言うところの「からゆきさん」(本書では「娘子軍」)が少なからず含まれており、その数は明治19年(1886年)に至って44名にまで膨れ上がります。
本書はそのあたりの状況について、
さて翻って我娘子軍の香港に於ける歴史は如何、之が考究は頗る困難であるが、只一つ断言し得る事は我対外発展の先駆者は常に娘子軍であるという常石(ママ)がこの香港に於ても当てはまる事である。(注・適宜、新字・新かなに変えてあります)
と記していますが、その後明治34年(1901年)には132名とさらに増加、明治末には200名にまで達したそうです。
彼女たちはたいていの場合、日本で「香港に行って女中や子守として働けば、莫大な給料が得られる」という甘言に釣られて密航船に乗り込み、香港に上陸後は貸座敷に引き取られて娼妓として働くことを強制されたといいます。
中にはそこで外国人に身請けされて、その屋敷に同居するというケースもあり、本書にも、
山村カメ リンドハースト、テレス、八番地 外国人マクビン抱え 長崎県 十八年
(191頁。明治19年の項。長崎県出身の18歳の女性)
といった、それらしき女性の名前が見えます。
彼女たちが働いていた貸座敷は、中環から上環にかけて点在しており、現在の地図と照合したところ、レーン・クロフォードの裏当たり(士丹利街〔スタンレー・ストリート〕)やエスカレーターで有名な閣麟街(コクラン・ストリート)にも在ったようです。
今日、私たちがショッピングやグルメにいそしんでいる繁華街で、からゆきさんたちはせっせと働いていたのですね。
この他、香港在留日本人の変り種として、入墨師のことにも触れておきましょう。
本書の「明治三十四年に於ける在留日本人」の項には、「入墨師」の欄があり、そこには「野間傳、屋台良卿、河原畑力松、生田幸吉」という4人の入墨師の名前が見えます。
本書巻末の「明治中期ごろの香港 老香港座談会(第2回)」によれば、ロシア軍艦の仕官相手に野間傳が始めたのがその起こりとのことで、外国人相手にかなり高い料金を取っていたそうです。
ロシアの仕官にいったいどんな彫り物をしていたのか、その詳しい中身は本書には残念ながら掲載されていませんが、昇り竜なんかを彫ってもらう手合いもいたのでしょうか。
彼ら入墨師は中環の他、湾仔にも居住していました。
以上、本の紹介がてら、ちょっと気になる事項についてまとめてみました。
昔々の香港と日本の結びつきがよくわかる本ですので、興味のある方はぜひお読みになってみて下さい。
付記:そういや、『
女衒』の主人公も香港に流れ着くんでしたねえ。この主人公は長崎出身でしたが、からゆきさんも長崎の女性が圧倒的に多かったようです。